Digimon Tamers 2021 Blog

デジモンテイマーズ放映20周年記念ブログ

Digimon Tamers 1984-2001-2021

 

2001年に徳間書店から出版された、私の初期短編集「深淵を歩くもの」は長らく品切れ状態で、中古品が高騰していて心を痛めていた。これからまた徳間と仕事をする方向で話をしている時、思い出して再版を依頼したら、電子ならすぐ出来ますと言われ、今の時代に紙に拘る事もないないと、だったら是非とお願いしたら、極めて迅速に進めてくれて、既にAmazon KIndleなど各種の電子本ディストリビュータで配信されている。

これには「デジモンテイマーズ1984」は含まれていない。「インスマスを覆う影」のノヴェライズ、「ウルトラマンティガ」の外伝的な短編小説などが収められている。

「深淵」の後に書いた短編もかなりの数があるので、機会があれば本にまとめたいのだが……。

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カヴァーは伊藤郁子さんに描いて戴いた。


 

同じ編集者だった人が、当時SFジャパンを編集していた。

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かつて存在したSF小説誌「SFジャパン」から短編小説執筆の依頼があり、SFアニメ特集だったので、ならばシリーズの放映終了直後だったテイマーズの前日譚を書こうと思った。

2018年に、若干改訂して大幅な注釈をつけたオンライン版を公開した。注釈はダウンロードして、Acrobat Readerで開かないと表示出来ない。

 

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テイマーズの背景設定は、自分でも野心的だったと思う。
デジモンそのものの設定は極力、本来の玩具設定、そして前作「アドベンチャー/同02」とは変えず(死んだらはじまりの町でデジタマとして甦るというのは無くし、倒した相手をデータ・ロードして能力を継承するというものを付け加えた)、しかしそのデジモンそのものの起源を本シリーズでは、言い方が悪いけれど捏造をした。


デジタル・モンスターというからには、オンラインに存在するものだろうし、そこが他の「●●モン」と決定的に異なる独自性を主張出来るところだと思う。デジモンウェブの公式の説明文を読んでいても、「~のデータから産まれた」といった文言が多く、本ブログでも四聖獣やデーヴァについて記した時にも書いたのだが、古代神話、旧神など多くの人文学的なデータベースがリソースになってデジモンは生まれている。勿論、自然科学の分野のデータの方がより具体的なデータともなっているだろう。

となると、デジモンの起源というのはそんなに古い時代では有り得ないのではないか、というのが私の発想起源だった。

勿論、古代から別次元で進化し続けてきたモンスターが、ネットワークを人間が整備してから、人間の残したデータとマージして進化してきた、という解釈も可能ではある。

テイマーズのデジモンは、人間の想像の範疇を超えた進化をしているものの、創造主自体は人間だ、というのがテイマーズ解釈であった。

2クール目デーヴァ編の、スーツェーモン、及びその腹心チャツラモン(14話で人間へのメッセージを放った)が人間に挑戦的であったのは、ネットワークに棄てられたデータが自分達の起源だと知っており、人間を憎んでいるという動機があった、と物語は構成している。


人工生命、人工知性をコンピュータ内で作るという試みの起源となると、1940年代に考え出されたセル・オートマトンを二次元でプログラムされた簡易生物シミュレーション、ライフゲーム (Conway's Game of Life) がルーツとなる。1970年にこれは作られたが、携帯液晶ゲームのデジモン、その祖であるたまごっちに似ている。というより液晶のゲーム自体はルーツを辿るとライフゲームになるのではないか、と思うのだが、私はゲームハードに詳しくないので、これは憶測の域を出ない。

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ともあれ、デジモンは人工生命というテーゼを、より強調したのがテイマーズに於けるデジモンの在り方となった。

人工知性というと、2021年現在はAIアルゴリズムを連想されるか、擬人化された音声サーヴィスといったものが普通に実用化されて、全く珍しい存在ではなくなっている。株式投資という面でも今やAIによって運用されている。

しかし本当にこれらがインテリジェンスなのだろうか。単機能に特化して、人力よりも効率が良く、トータルでコストカットが出来るという理由で発展しているものが。

 

アニメという物語で描くデジモンには、自我がある。だからキャラクターとなる。ゲームでも自我がある様に設定され、そう描写されているだろうが、子ども向けの映像フィクションというドラマ空間でデジモンの自我は、「あって当然」なくらいのものになる。

手塚治虫が「鉄腕アトム」で、自我を持ったロボットに人権があるか否かを主題の一つにした様に、人工知性、人工生命というものには本来そうした難題がつきまとい、エンタテインメントの題材としてこの問題については、特に日本のアニメ、特撮では繰り返し検討されてきた。

ロボットと限ればその祖はやはりアイザック・アシモフだろうが、オッフェンバックホフマン物語」のオートマトンギリシア神話などに遡ると、人造(神造)人間は永年の物語主題であり続けた。


私は「THE ビッグオー」でこの問題をモチーフの一つにしたし、テイマーズでもグラニの存在がそれを表している。

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ギルモンが、タカトが話しかけなければ、グラニはあそこまでの人格(デジモン格)を獲得出来なかったろうと思う。つまり、やはり創造主問題なのだ。

 

テイマーズで、ワイルド・バンチという若い研究者グループが作り上げた独創的な仮想生命がデジモン、デジタル・モンスターだったというオリジンを描いたのは、デジモンという商材を矮小化したかったのでは当然ない。むしろ、ドラマティックな背景を持たせて、かつ、クリエイターの思惑を遥かに越えた存在となって現代に流通している、という物語性を強調したかった。

デジモンにも「妖精型」というのがいるが、現代の人間に認知されていない別次元の存在が、人間とは全く相容れない価値観で介在してくる。時代によってそれが妖精の様に認識されたり、エイリアンと認識されてきた――というのがジョン・A・キールのエイリアン=超地球人説を乱暴に定義したもので、「アドベンチャー」のシリーズディレクター、角銅博之さんはデジモンをこれに近しいものだった、と述べてもいる(そのものではない)。妖精に限らず幻獣、UMAなどこの解釈はUFOそのものまでも敷衍出来る、懐の深い解釈なのだが、なかなかフィクションでは説明しきれない。

デジモンが原始的なプログラムが幾ら進化したとて、2000年頃までに人間を凌駕せんばかりに進化している理由は、テイマーズでも提示出来ていない。ここは様々に解釈が可能であり、決めつけたくはなかった。

 

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ワイルド・バンチの一人がジェンリャの父親――という構成がシリーズを縦軸で貫いていた。多くの設定は17話ラピッドモン回(脚本:まさきひろ)に、SHIBUMIの赤いニシン(意図的誤誘導情報)と共に提示されている。

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作劇的に、ジャンユーが初めて目の当たりにする、リアライズしたデジモンとして、インプモンとテリアモン(家の中でジェンが愛玩しているぬいぐるみとして見慣れていたがやっと気づく)という事になったが、本来的にはアグモンは無理でも、初期に周知されたデジモンだった方が、より驚きが大きかっただろう。

 

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私も44話ドーベルモン回のA-Partで、多くの情報(デ・リーパーの説明)の中で、ドルフィンことロブ・マッコイと、オリジナルのデザイナーという設定である長男キースのホームビデオ画面と共に、ワイルド・バンチが実現しようとしていたものを見せている。

小説「デジモンテイマーズ1984」はこれらをまとめたものだった。

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2021年に振り返ってみると、ワイルド・バンチが活動していた1984年から2001年までは17年。2001年から2021年よりも短いのだ。
ワイルド・バンチが使っていたゼロックスのALTOから、現代は相当にコンピュータは進化したのだが、本格的に人工生命、人工生態系を作ろうとという試みについてはずっと足踏みをしている。ドワンゴがARTLIFEという人工生命観察プロジェクトを終了したのが2019年。あまり注目されなかった。

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2001年の私は、20年後ならテイマーズで扱っている様な出来事も有り得なくはないリアライズはさておき)、と考えていたと思う。人工生命が仮想空間で、明瞭な自我を持つといった事だけれど。

2016年に世間に登場して耳目を集めた、香港の企業が製作するソフィアというロボットは、世界経済フォーラム (!)でスピーチをし、サウジアラビアの市民権まで得たが、実際のところ、優秀なスピーチライターにサポートされた、出来の悪いオーディオアニマトロニクス(ディズニーランドの展示)の範疇で、昔の学天則と大差ない。ただ、実際に自我があるかの様に振る舞うだけで、ソフィアは注目を浴びた。人工生命の自我、知性獲得までには何光年も距離があるのが現状だ。

むしろ「ターミネーター」のスカイネットの様な、人類を破滅させるまではいかなくとも、人類が意識せざる領域で管理されている――という事は既に一部で起こっているかもしれない。

いやもう現実には、日本の内閣府が2050年の日本を、人間とロボット、AIが共存する(というよりはAIに生かされている)社会として理想化したムーンショット計画を2020年のパンデミックの最中に発表して、「陰謀論」を語る人々の間を騒然とさせた。高齢化社会の解決策として作成されたのだろうが、どう考えてもこの人間の健康を管理するAIに、「心」があるとは思えない。

 

かつて人工生命、人工知性を確立しようとした研究者の目標が、工業用ロボット的な単機能なものではなかった筈だが、もうそうしたものを研究する事すらも現在は無駄なのだろうか。この点に於いてのみ、テイマーズの裏主題的な問題は20年で、恐ろしい程に陳腐化してしまったと残念に思っている。

 

私はテイマーズを見返している内に、ワイルド・バンチのメンバーが必死に2001~2002年に起きていた状況を打破すべく奮闘する様子に思い入れていた。かつては夢破れながらも、子どもの世代が頑張っている。それを必死に支えようという立場だ。

しかし、テイマーズというシリーズ自体は視聴率や販促では前作に及ばなかったものの、好きになってくれた人が世界中にいて、今尚も熱をもって好きだった事を語ってくれる。それぞれの分野で頑張っている。ジャンユーが、自分の息子がデジモンのゲームをやりこんでいるのを見て、どれ程嬉しかっただろう、とは想像出来たのだ。

今年2021年、放映20周年を記念した商品展開がこれほどあるとは全く予想だにしていなかった。ありがたいと思う一方で、だったら2018年に続編(といっても1~2クールの想定だった)を作らせてくれたら良かったのにとも思ったが――、いや、アニメのキャラクターは本来、歳をとらないものなのだ。新規に描かれた版権画はいずれも、20年前のタカトたちだった。ことテイマーズに限って、リアルタイム性に固執する私の感覚の方がおかしい、というのは自覚している。