Digimon Tamers 2021
昨日8/1、横須賀芸術劇場でデジフェス2021が無事に開催され、朗読劇「デジモンテイマーズ2021」も披露された。
8/7までは配信を見られる。
このイヴェントの事で連絡があったのは昨年12月。翌年8月に大規模なイヴェントを開催するというのは勇気がある決断だと思った。
昨年暮れの段階で、メディアの報道の調子は変わりそうになかったので、ほぼ予想通りな世間状況であり、想定内だったと思う。
デジフェスは東映アニメーションの企画部、イヴェント事業部が主催するもので、そこにバンダイなど各社が協力するという態勢。コアには過去から将来に続くデジモン・アニメというコンテンツが主軸にある。
これからの音楽業界なども、リアル・イヴェントが生命線になると言われており、こうしたイヴェントはアニメなどでももっと大規模に開催されていく――、筈だった。2020年までは。
オリンピックは無観客ながら開催されているが、ともあれこのお陰で都内のハコが悉く使えず、横須賀という、ちょっと都心からは離れた町での開催となった。
今更ながらに、なんで今年のデジフェスのキーヴィジュアルであるテイマーズの新規版権画がセーラー服姿なのか、やっと判ったという。
この劇場は、当然であるが旧帝国海軍の施設があった場所に、地域サーヴィスの施設などと共に併設されていた。
堂々たるオペラハウスであり、オーケストラ・ピットも備え、4階席までもあったのだが、収容人員は満席でも1800。今回は2/3程度に集客を抑えられていた。でもまあ大体、フロアは埋まっている様に見えたので、全く寂しい感じは無かった。
ダビング仕上げまで立ち合ったCDドラマと違って、今回の朗読劇は基本的には脚本を提供するだけを求められた。だが、色々とテイマーズ的な約束事があるので、音楽の選曲と効果音や場面転換の照明等について記したものを提出して、後は全てお任せしろという事に。
やはりちょっと気になったので、リハだけは立ち合わせて欲しいと申し出た。
本来ならリハ前に、関プロデューサーが軽く説明をするところなのだが、体調を崩されて当日は不参加となった。
幾つかの質問が演技陣からあって、それには答えただけで、後は黙って見ていたが、概ねは狙い通りになりそうだと思い、本番は少しゆったりと見られた。
そもそも論だが、実は多くの枷がこの出し物にはあった。
この朗読劇を含むイヴェントは、後にBlu-rayなどの商品化は出来ない、と聞いて愕然。
大体20数分程度の朗読だけで、起承転結あるものを描ける筈ないのだが、野沢雅子さんは事前収録とも聞かされ、頭を抱える。
CDドラマの延長で、概ねのキャストはそれがコアだが、インプモン~ベルゼブモンの高橋広樹さんは可能なら出して欲しいという事で、これも20周年というお祝いという面が奏功し、無事に出演が叶えられた。
プロットを書いてはみたものの、なんか足らないぞ、と。いや、ケンタやヒロカズ、マリンエンジェモンとガードロモン、リョウとサイバードラモン、何よりシウチョン――と、言い出せばキリがないが、ステージは同時に立てる人数がきつく制限されていた(感染対策として)。
しかし、もう一人だけ。テイマーズというシリーズには欠かせなかった存在、クルモンは?
と私が言ったら、関プロデューサーも「私もそう思った!」と同意してくれた。
トークショウの時、金田朋子さんがいるといないでは全然違うだろうと、ここは交渉をしてくれて、無事に出演が叶った。
トークショウで、私の長年の疑問はやっぱりそうだったのか、と判ったのが、クルモンが「ぴと ぴと ぴと」とか、夥しいオノマトペを発しているのは、やはり録音台本にすら書いていない、アドリブだったという事。
それを「あって当然」的な空気感だったのが、今思うと凄いなぁと感銘を受ける。
だから、クルモンというキャラクターは、多くの部分が金田さん自身で創ったものだと今は言える。
共通質問で、もしパートナーデジモンがいたらどれにするか? という無茶なものがあったが(だってテイマー役は他に選びようがない)、千葉進歩さんがレナモンを挙げられていたのが面白かった。トークではレナモンのあれこれを褒められていたが、千葉さんはセイバーズのゲーム版で、レナモンを演じられている。テイマーズのとは別個体ではあるが。
さて今回の朗読劇は、本当はもっと、当時の録音スタジオ(旧タバック)の雰囲気に舞台を見せたかった。本来なら野沢さんがメッセージで言われていた様に、スタジオには三本のマイクが立っており、台本を持ちながら、役者さんは自分の出番になると、すっとマイク前に移り、終わると下がる。これが実に背後から見ていてもカッコいいなぁと思っていたので、これを再現したかった。
しかし、感染対策としてマイクは一人一本となって、舞台上の動きも遮蔽板で閉ざされてしまった。
最後は、演技陣全員と会場と配信とで、一緒に「君も、テイマーを目指せ!」をやって貰いたかった。が、これも感染対策で発声はダメとなり、舞台も両袖から津村さんと高橋さんだけとなった。
が、それでもあれだけは出来たのだ。
この時節の自粛強要社会の中で、舞台のスタッフは本当に見事に実現させてくれたと思う。
劇中劇に入る時に、フィルム・リーダー(カウントダウン)が流れたのには感激した。デジタル製作になっても、これはリアルに使われている。
一応、リクエストはしたのだが、やはり金田さんを獲得出来たのが限界で、今回NYX(人工知性)役に、CDドラマで特別友情(つまり無償)で、デジモンアニメ愛から出演して戴いた藤田咲さんを招く事は出来なかった。
では今回誰が演じていたかというと、折笠冨美子さんが事前ではなくライヴで演じていた。スポットが消されて声もエコーが掛かる程度だがエフェクトが掛けられていたので、会場でも気づかれなかったのではないか。折笠さんには、快く演じて貰えて感謝しかない。
今回、マリスボットの様な明確な「敵」を設定しなかった理由は、パンフレットのインタヴュウで答えている。
今のネット、を考えると、そのテクノロジーよりも、それの使われ方に問題が大きいのは明らかで、山木の怒りというのは私の抱えるものに重なっていた。
と言っても、あの朗読劇での「仮想敵」そのものは、今の日本ではまだそれほど大きな社会問題になってはいない。私が専ら持つものは、実は重なる面もあるが別なものだった。
だがそれをここで書いても色々迷惑を掛けるので、ここまでにするが、このエントリでは示唆している。
それと、今のデジタル庁の個人情報の取り扱いが問題なのも事実で、これを指摘するジャーナリストが殆どいないのも大きな問題だ。
日本でメジャーなSNSのトークが、なんで流出するのか。その内容ばかりに関心が向けられるが、それがどうして流出したのかに関心を払うべきだ。
千葉進歩さんには、またも面倒な単語が並ぶ長台詞を喋って戴き、申し訳ないとも思っているが、久々の初期山木のテンションが見られて嬉しかった。
レナモンがいない以上、この「現代版テイマーズ」は2018と同じ様にしか終われない。
しかし今回は、ライヴで、フルコーラスで、AiMさんが「Days -愛情と日常-」を歌われた。
ライヴ・コーナーはこの後なのに、朗読劇終わりでいきなり入るという構成を承諾して貰えて有り難かった。
初めて生で聴いた「Days」は、想像よりもパワフルだった。2001~2002年頃の、和田光司さんと回られたライヴでも、こういう歌い方だったのだろうか、と想いが過った。
2018年にBlu-rayボックス発売が近づく頃、販促兼ねてミニライヴをやったらどうか、とハピネットに提言したのだが、あっさり却下されてしまった。しかし、デジフェスはその願いを半分叶えてくれた。
デジフェス2021のライヴは、宮崎歩さんが体調を崩されて欠席され、谷本貴義さんと太田さんが補填されたが、谷本さんがショー冒頭の「The Biggest Dreamer」、ライヴ・パートでは太田美知彦さんが「SLASH!!」、WILD CHILD BOUNDこと藤重政孝さんが「EVO」(朗読劇中の進化場面でライヴで歌って貰う案も初期にはあった)、谷本さんの「One Vision」、AiMさんが「My Tommorow」と、テイマーズ主要曲は全網羅されていた。
トーク・パートで高橋広樹さんが「Black Intruder」の一節を歌われるというサプライズがあったが、「3 Primary Colors」とか「夕陽の約束」とか「涙をこえて」とか山木の「Black X'mas」とか「小春とテリアモンのおっかけっこデュエット」とかとかとかの歌われるライヴが……、もうないかな……。
帰ろうと階段を降りていたら、大阪から一人で来たという若い女性から声を掛けられた。遠路はるばる来られた方々には心から御礼を。
Digimon Tamers 2018 「Days -情報と非日常-」
「デジモンテイマーズ2018」については、Twitterでも記したので読んでいる人は多いと思うが、整理して時系列で書き直してみる。
2018年春、デジモンテイマーズのBlu-ray Boxがハピネットから発売された。アドベンチャー、02に続いて無事に発売が決まった。
初期デジモンアニメは、デジタルに製作は移行していたが(東映アニメは早かった)、まだフォーマットは640x480というSD画質だった。フィルム撮影されたセル・アニメだと、HDでのリマスターがとても有効で、「serial experiments lain」は35mmで撮影されていたので高画質化が可能だった(が、アナログ時代のセフティ画角が狭く、カット毎にとても大変な修正を上田Pが少数スタッフとで行った)。
端境期のSD画質デジタル・アニメは、HDコンバートというプロセスを経る。今はソフトウェアの機能が上がっているのか、不満のないクォリティになっていた。
4クール作品としての価格は抑えられてはいたのだが、しかしそれなりの定価にはなる。そこで初期デジモン4作は、新規録音のCDドラマを特典としている。
私に関プロデューサーから、十年以上ぶりに連絡が来たのは2017年初夏。秋に録音するという。登場人物はテイマーズの場合、メイン3人+デジモン3体くらい、という話だったのだが、野沢雅子さんは出られると聞いて、そこはやはり嬉しかった。
多田葵さんもご出産時期に重なっていたのだが、何とか録音は調整――ではなく、運が良かった。
レナモンを演じられた今井由香さんが声優を引退されていた。テイマーズは「その後」は無かったのだが、他の作品では別の方に引き継ぎがされており、安直に今回だけお願いなどは出来ないと知って、これはショックだった。
今井さんが不在という事は、レナモンが不在になってしまう。
2003年の「メッセージ・イン・ザ・パケット」がしんみりとした作風で、それが私にとってテイマーズの最後になっているというのは本意でなく、もう不在感をドラマで主題にはしたくなかった。とは言え、留姫にとっては依然重要なのだけれど。
話が来た頃、私はカナザワ映画祭のトークショウ(朝松健さんとの)があって、金沢行きの新幹線の中で、延々とテイマーズの主題歌、挿入歌、キャラソン、サウンドトラックを聞いた。
「SLASH!!」を久しぶりに聴くと、十年以上も経過しているのに未だに心に滾るものを感じた。挿入歌は、進化ソングがこの後「EVO」「One Vision」が登場するが、1クール目は「SLASH!!」が決めの歌になっていた。スラッシュ・バンクはシリーズ終盤まで使っている。
恐らく、CDドラマは、久しぶりの旧交を温める的な、緩いものが想定されていたと思う。
だが私は、「SLASH!!」を使いたいと思った。という事はバトル場面がある。
映像のないオーディオドラマで、どこまで出来るのか。そしてどうすれば成立するのかを考えていくのだが、テイマーズは2001年に放送をした、2001年の話だったという大原則にたち戻る。
2018年に聴かれるなら、時制も2018年でなければならない。これがテイマーズだ。
しかし勿論大きな問題がある。
タカト役の津村まことさんは幅広い声を出されるが、とは言え青年は無理をさせてしまうし、何より視聴者が親しんだタカトではなくなってしまう。
一方、ジェンの山口眞弓さんは、最初の頃はリアルな変声期の少年、という風に聞こえていたが、シリーズの後半で重い責任を背負うジェンを聞いていると、大人になってもこういう声でも全然おかしくないと思っていた。
留姫役の折笠冨美子さんは勿論大人の留姫に問題はない――。
いつしかもう、私は2018年のテイマーズ以外に考えられなくなっていた。2004年とかの時制で作った方が楽なのは当然だ。しかし、今、視聴者にとっても昔の話を聞かせられても、懐かしさしか感じられないだろう。
中学生になったタカトが、理屈は置いておいてタイム・スリップして、2018年のジェン、留姫と出会い、そしてギルモン、テリアモンと再会する――。
それを成立させるには、山木が不可欠だった。樹莉も必要だった。
幸いにしてこの交渉は通って、プロットを考えた。それが2018「Days」となる。
最初にプロットを、関プロデューサー、ハピネットの担当プロデューサーに読んで貰うと、「力作のプロットを……、ありが……う~ん」みたいなメールが来て、まあ戸惑われていた。
アニメという映像がないのに、この情報量を音だけで表現出来るのかも未知数だった。
今回のCDドラマは、シナリオ作りと音響効果の指定の演出は貝澤さんが担当(スキャニング・カード・スラッシュというコールは貝澤案)、レコーディングのディレクションと仕上げは角銅博之さんという2人のディレクターが分担され、私はどちらも懇意なのでとてもやり易かった。
一番問題とされたのは、30分(オーダーは22分くらいだったと思うのだが、アニメのシナリオから10年離れていて勘所を失っていた私は、丸々30分のドラマを書いてしまった。アニメだと1.5話分はある)で物語は終わらず、クリフハンガーで「続く」となっている点だった。
特にシリーズ序盤は、テイマーズはそういう作劇をしていたので、続きがなくても成立すると私は思っていたが、とは言え、という価値観も判る。
しかし、こぢんまりとまとめるのではなく、テンションを目一杯に張って、勢いのあるテイマーズを再度描いてみたかった。いや、聴いてみたかった。
結局私は「視聴者の為に」と言いながらも、自分が面白いと思うものしか考えられないのだ。
ハピネット担当Pが「ワクワク感が戻って来たと思う」という意見を言ってくれて、このプランが承認され安堵した。担当者もリアルタイム世代だった。
用語の説明などはライナーノーツで補綴するという事で、最新のSF概念やテイマーズの時代から何世代も経た現時制での用語などを用いたが、冒頭のナレーションは堅苦しい用語が多く、シリーズでナレーションを務められた野沢さんにお願いするには忍びない。最終話で独白をしていた17年後(シリーズ終了時からは16年後だが)の山木に振り替えた。
「メッセージ~」では描けなかった、デジタル・ワールドにいるギルモン、テリアモンの芝居を書けるだけで、私は多幸感で一杯だった。
なるべく当時の様な空気感で、しかしシリーズにはなかった様なシチュエーションでの2人の場面を観たかった。いや、聴きたかった。
テイマーズでは、恋愛的な関係性は極力行かない方向へと当時は舵取りしていた。キャラクターの誰と誰がカップルとなる、という想像を、特に女性ファンはデジモンに限らず重視しながら、自分なりの愉しみ方をしていた。それは自由にして貰って構わないのだけれど、作り手側としては、視聴者の思惑と掛け離れてネガティヴな印象を持たれるのは避けたいと、これは初期の構成から明瞭にしていた。
なので、第1話から最終話まで貫いているのは、タカトの樹莉に対する仄かな憧れみたいな感情で、特に第二部終盤から第三部への強烈な動機付けとなっている。しかし、実のところ樹莉がタカトをどう見ていたのかは――、私にも断言が出来ない。それでいいと思った。
当時、放映直後とかの私のインタヴュウで、「テイマーズは、タカトのラヴストーリーだった」という言い方をした時があったが、それは上記の様な裏事情があっての事であり、これは些か言い過ぎたと思っている。
なので2018でもそのラインは堅持し、だが特別な進展はまだしていない、という状況から始まるのだが――、2018年には……、と、やや踏み込んでいる。2003年と2018年の樹莉が登場する。これは浅田葉子さんが見事に演じ分けられた。
16年後のジェンや留姫がどうなっているのか、は、想像するのが楽しかったが、これもシリーズの延長から大きく離れない様に留意した。
ドラマは、「これからどうなる!?」というところで終わり、AiMさんの「Days -愛情と日常-」が流れる。それが終わるや「The Biggest Dreamer」のインストゥルメンタル・ヴァージョンが流れ、タカトが勢いよく次回予告をして、「君も、テイマーを目指せ!」。これがないとテイマーズ感が失われる。更にダメ押しの様に、オンエア時についていた提供バックまでつけた。「Days」のインスト版の短いクリップ。
Blu-rayでシリーズを見る前か後か、ともあれ買った人に一番喜んで貰えるものを目指した。
2021年に本ブログを書く為、リアルタイム以来本気で見返して、色々「そうだったのか」という発見があったけれど、一番大きいのは、映画「冒険者たちの戦い」で作られた劇伴が後半はメインとも言える選曲をされていた事だった。その音源はCDにしかなかったので、2018「Days」の音楽はシリーズ前半の音楽から選曲をした。
シナリオに貝澤さんが音響効果の指定を割り付けたものを、既にここで公開している。
用語の説明、録音の時の様子などについては、ライナーノーツというものを記している。
録音の様子は、「アニメアニメ」が熱心に取材をしてくれて、キャストの方々のコメントも含め、この記事で紹介されている。
そして来たる8月1日に、デジフェスが開催され、朗読劇「デジモンテイマーズ2021」が上演される。
デジフェスの模様は有料配信がされるが、後に映像メディアとしては発売されないのだそうで(諸々な権利関係がある事情)、この朗読劇は本当に一夜の夢だ。
設定的な事をやっている余裕などないので、はっきりと今回の朗読劇は2018「Days」の続きという事にして、2018の「その後」を描くのだけれど、テイマーズの正史としては残らない。
デジフェス公式アカウントが、2018「Days」の内容を周知させたいとシナリオをサイトに上げたのは、こういう事情があった。来場者、配信聴取者皆がCDドラマを聴いている筈がないので、ざっくりとした内容だけでも知っておいて欲しいという心遣いであった。
今回は高橋広樹さんと金田朋子さんも出演して貰える。インプモン、クルモンは本当に20年振りなので、私個人的にも楽しみである。
Digimon Tamers 2003 「メッセージ・イン・ザ・パケット」
※初出時、2002としていたが、CDドラマの発売は2003年だった。シナリオ執筆時が2002年10月。
津村まことさんがオーディションで選ばれた時の、些かドラマティックな事を当人に話したのは、打ち上げの時だった。演技陣については別途書くつもりだ。
最終話放映日だったか、確か新宿の銀座アスターが打ち上げ会場だった。
フジテレビの担当プロデューサー、川上大輔さんはアドベンチャーからテイマーズまでだった。川上さんは帰国子女というか海外育ちの人で、海外で好きだった日本のアニメが「太陽の牙ダグラム」という渋い好みの方だった。だから、私がテイマーズの構成会議で、ちょっと難解なSF設定を振りかざすか、ドラマ構造のツイストを狙うと、自分の好みはそれがいいとも思うが、今の子どもたちに広く見て貰うには――という観点での意見を言われていた。実にプロらしいスタンスだった。
打ち上げの時か、最後の方のホン打ちの時だったか思い出せないが、最後の最後に、川上プロデューサーから言われて記憶に残っているのは、「小中さんは面白いなぁ」としみじみ言われた事だった。私という人間が面白いのか、私の構成が面白かったのか、よく判らずだが、褒められたので「そ、そうですか」とだけ返事をして、どこがとは問わなかった。
シリーズのラストで、テイマーはデジモンたちと別れねばならなくなる――。そういう終わり方をすると、当初から断固として決めていた訳ではない。
しかし、22,3話を構成している頃には避けられないとも思っていた。
「ぼくの考えたデジモンが、本当に現れる」というのがテイマーズの最大の特徴で、現実に実体化するという事に重きを置いたのが前半だった。
日常に現れる非日常。それが日常化していく過程がドラマだというのは、今も変わらない私のナラティヴに於ける信念だ。
非日常的な存在を、驚きを以て視聴者に提示するには、日常のパートにリアリティがなければならない。だからシリーズ前半は、ちょっとしたディテイルでリアリティが感じ取れる様なシナリオであるべく、構成をしていた。
しかし、明治通りを驀進してくる様な怪獣が現れ、更には空にデジタル・ワールドが蜃気楼の様に見えてしまう事態まで描いてしまうと、もうリアリティの世界ではなくなっている。勿論、デジタル・ワールドに行かねばならない、とタカトが決意をする上でも、また、すぐに方法は判らなくとも、向こうから来るならこちらからも行ける、という感覚を持たせる意味でも、これは必要な描写であった。
デーヴァの差し向けが起こる前から、既にデジモンがリアル・ワールドへリアライズしている現象があった。レナモンもテリアモンも、秘やかにパートナーの許にリアライズしており、これには迎える側(テイマー)の意思の強さが必要だった。
しかし、14話で山木がシャッガイを起動させた時、都庁の空に現れたシャッガイ・ホールに吸い込まれていくデジモンの数は、10や20ではないレヴェルだった。
貝澤さんの作った映像を見て、デジモンのリアライズはもっと早くからも起こっており、人に検知されないまま過ごしていたデジモンが多かったと考えた。
つまり、山木のヒュプノス稼働前からもう既に、リアル・ワールドとデジタル・ワールドの境界は崩れつつあったのだ。ヒュプノス、特にシャッガイの稼働は、その境界の堤防を崩した役割であった。
第三部で、ワイルド・バンチとチーム・ヒュプノスは、「デ・リーパーをいかに排除するか」という計画を進めて、テイマーズとデジモンの後援をしている、かの様に見せていたが、実は崩れたリアル・ワールドとデジタル・ワールドの境界を強固に築こうとしていた。これが蟻地獄作戦の本質であった。
つまり、遅かれ早かれ、リアライズしたデジモンはデジタル・ワールドに帰らねばならない状態になる。SF的な設定面で、最後に別れる事になるのは必定であった。
デジモンのアニメは後にも作られるだろう。しかしデジモンのオリジンにまで物語に組み込んだテイマーズは、状況を最終的に元に戻さないと、後のシリーズを新たな気持ちで視聴者が迎えられないだろう、というのも一つの理由だった。
また、本ブログではあまり書いてこなかった事だが、私はテイマーズを一種の怪獣物だと捉えていた。自分自身が子どもの頃から好きだった怪獣物で、子ども自身が怪獣を育てるというジュヴナイルも幾つかの先例があった。本ブログでは大映のガメラのリメイクを、小中兄弟で最初のシナリオを書いた事を記しているが、最後には当然、怪獣と子どもは別れざるを得ない。
ドラえもんの「のび太と恐竜」も最後は別れる。別れる事で、一生忘れられない思い出となる。
私の個人的体験で言えば、幾つかの参照モデルがあった。
一つは、ギルモンの在り方で大きなインスパイア元となった「快獣ブースカ」で、これについては既に記している。
もう一つの参照元は、1971年の東宝チャンピオンまつり(メインは「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」)で上映された「ムーミン」の最初のシリーズ7話「さよならガオガオ」だった。
ズイヨーが企画し、最初は東京ムービー(Aプロ)、途中からは虫プロが製作し1969年、1972年に放送された。音楽が宇野誠一郎、ムーミンの声が岸田今日子と、実に味わいのあるアニメだったが、今の著作権管理者には認められないものとなってしまい、事実上封印された。
「ガオガオの谷」は、ムーミンが「ガオガオ」としか言えない、小さな生き物と出会う話だった。火を噴いたり物騒なところがあるものの、愛らしいガオガオとムーミンは仲良くなっていくのだが、村の識者が調べたところ、それは龍の子であり、成長したら大災厄を引き起こす存在になると判る。ムーミンパパはムーミンに説く。龍は龍として生きるのだから一緒にはいられないと。
ガオガオも夜になると、親を恋しくて遠吠えしていた。翌日、結局ムーミンはガオガオと別れる。一生懸命竜巻を起こそうとしているガオガオを、物陰に隠れていたムーミンは懸命に応援する。頑張れ、頑張れ!
そして竜巻を起こしたガオガオは、棲み家があるおさびしやまの向こうの向こうの谷に飛び去っていくのを、ムーミンは涙ながらに見送る――という物語。私は小学校中学年だったが、おいおいと泣いた。そして、一生その物語を忘れられなくなった。
私が子ども向け(ジュヴナイルとしての)怪獣物を考えるなら、こうした体験を今の(当時の)視聴者の子どもにして貰いたかった。
これが、もう一つの理由であった。
こうして挙げると、複合的な理由からテイマーズのラストは落ち着いたのだと言える。
ただ、涙で別れるだけではなく、エピローグでは希望も描いた通り、これで一切タカトとギルモン、ジェンとテリアモン、留姫とレナモンが再び出会う事はないなどと決めつけてはいない。
しかし、安直にすぐに再会する事などは考え難かった。
私の作品の多くが、最終回の後を、視聴者に様々に想像して貰う構造をしていた。テイマーズは子ども向けなので、基本的にはポジティヴな夢として、そうした可能性を残したかった。
私の個人サイトでテイマーズのリソースを公開していた為に、放映後には多くの人からメールを貰った。数年後には海外の人のみがコンタクトしてきては、その後どうなったのかを訊いてくる。その都度私は、それは視聴者それぞれの中にあると答えて、その後どうなったのかを明言するのを避けていた。(まあ主にはカップリング関係の質問だったのだが)
こうした玩具ありきなシリーズの、リメイクはあっても正統的な続編というのは作られた例はなく、出来ないものなどを想像はしたくなかった。
2003年に後番組「デジモンフロンティア」が終了すると、ここで初期デジモン4作で一旦閉じる事になる。
音楽出版のNECインターチャネル(当時。現在はFeelme)が、4シリーズの「その後」のCDドラマを出そうという事で、関弘美プロデューサーが東映アニメ側のプロデューサーとなった。
子どもだけという縛りがあった訳ではないが、テイマーズはああいう最終回だったので、一年後だとしても、大きな状況の変化があったとは思えない。
どうやったらオーディオ・ドラマで、パートナー不在のテイマーたちのドラマが成立するのか――。
という事で書いたのが「メッセージ・イン・ザ・パケット」であった。
このタイトルは、The Policeのヒット曲「メッセージ・イン・ア・ボトル」のもじり。元は、誰に届くか判らないメッセージの入った、海を漂う瓶を示すが、テイマーたちのパートナー・デジモンには固有IDがあり、そこへ送られるパケット(現在もネットワーク転送量/枠として使われるが)として、ボイス・メッセージを送ろうというジェンの思いつきが端緒で、リョウも含むテイマーたちがメッセージを吹き込む顛末をドラマにした。
これでも実は、テイマーズは発注側が想定したキャスト数をオーバーしていたのだが、製作している時は知らなかった。当然、アイとマコを呼べなかった。
このドラマは最終話のアフレコから1年近く経っての録音だったが、全く違和感がない。
この中で語られる「思い出」の数々は、私と4人の脚本家が一年の間に記したあれこれ、演出で加わったあれこれも織り込んで、かなりの情報量がある。
如何せんしかし、これにデジモンは出せなかったのだから、より不在感は際立ってしまう。だから、決してリスナーを泣かせたいなどと願った訳ではなく、楽しい要素も入れてはあるものの、問わず語りで吹き込まれるメッセージは、センチメンタルにならざるを得なかった。
今もCDは販売されている。テイマーズ20周年であれこれが商品展開する中で、Feelmeの音楽商品も再販されている。内容には自信があるし、俳優の方々の演技は素晴らしい。
ただ、どうやら私は長く書き過ぎたらしく(登場人物が多い上に、ドラマもそこそこの量があった)、シナリオに記していたエピローグはオミットとなった。このエピローグは、ウエットな読後感(聴後感)を軽減する役割があったのだけれど……。
シナリオはここに置いてあるが、聴いてない人で、テイマーズのシリーズ1年後を知りたい人には、是非聴いて欲しいと願う。
ギルモン・ホームの穴は、山木に知られる事となり(ヒュプノスの機能もすぐに復帰したのだから当然なのだが)、危険を回避する為にコンクリートを注がれて封鎖された、という事になっている。
実際の新宿中央公園の、ギルモン・ホームのモデルにしたところは、金属柵のすぐ背後にはコンクリートと鍵のある鉄のドアがある。当時は「聖地巡礼」という言葉は無かったが、実際に中央公園にテイマーズがモデルにした場所を訪れる人はいるだろうと思ったし、アニメの様な奥行きがない事に失望されるとも思い、そういう設定とした。
確信を以て書いた「メッセージ・イン・ザ・パケット」だったけれど、その後15年の間、最後にテイマーズを書いたのが、かくもセンチメンタルな内容だった事を悔いるとは思わなかった。本来テイマーズのテイストは、センチメンタルな要素はあるものの、もっとドライに子どもとデジモンを活写する、というものの筈だった。
この私の「気分」というのが、2017年に反動として噴き出す事になる……。
※追記
マンガ家石井敬士さんから、こうした情報を戴いた。
『メッセージ・イン・ザ・パケット』のラストは、
— 石井敬士 (@chocof91) 2021年7月21日
ドラマCDアンケートハガキを送ると抽選で500名にもらえたCD『デジモンオリジナルストーリースペシャル ~with~』に収録されております! https://t.co/tgNiKZvpPO
全然知らなかった――、のか記憶から消えていたのか、もう自分でも判らない。
う~~~ん、商業的な理由は判らないではないのだが……、実に残念だ。エピローグはなくても成立はする、とシナリオでも記しているが、確か録音はしたのになあ、という朧な記憶はあったので、腑に落ちた。
私はこの特典ディスクは貰っていないと想う。
内容は上述のシナリオを参照ください。
Digimon Tamers 1984-2001-2021
2001年に徳間書店から出版された、私の初期短編集「深淵を歩くもの」は長らく品切れ状態で、中古品が高騰していて心を痛めていた。これからまた徳間と仕事をする方向で話をしている時、思い出して再版を依頼したら、電子ならすぐ出来ますと言われ、今の時代に紙に拘る事もないないと、だったら是非とお願いしたら、極めて迅速に進めてくれて、既にAmazon KIndleなど各種の電子本ディストリビュータで配信されている。
これには「デジモンテイマーズ1984」は含まれていない。「インスマスを覆う影」のノヴェライズ、「ウルトラマンティガ」の外伝的な短編小説などが収められている。
「深淵」の後に書いた短編もかなりの数があるので、機会があれば本にまとめたいのだが……。
カヴァーは伊藤郁子さんに描いて戴いた。
同じ編集者だった人が、当時SFジャパンを編集していた。
かつて存在したSF小説誌「SFジャパン」から短編小説執筆の依頼があり、SFアニメ特集だったので、ならばシリーズの放映終了直後だったテイマーズの前日譚を書こうと思った。
2018年に、若干改訂して大幅な注釈をつけたオンライン版を公開した。注釈はダウンロードして、Acrobat Readerで開かないと表示出来ない。
テイマーズの背景設定は、自分でも野心的だったと思う。
デジモンそのものの設定は極力、本来の玩具設定、そして前作「アドベンチャー/同02」とは変えず(死んだらはじまりの町でデジタマとして甦るというのは無くし、倒した相手をデータ・ロードして能力を継承するというものを付け加えた)、しかしそのデジモンそのものの起源を本シリーズでは、言い方が悪いけれど捏造をした。
デジタル・モンスターというからには、オンラインに存在するものだろうし、そこが他の「●●モン」と決定的に異なる独自性を主張出来るところだと思う。デジモンウェブの公式の説明文を読んでいても、「~のデータから産まれた」といった文言が多く、本ブログでも四聖獣やデーヴァについて記した時にも書いたのだが、古代神話、旧神など多くの人文学的なデータベースがリソースになってデジモンは生まれている。勿論、自然科学の分野のデータの方がより具体的なデータともなっているだろう。
となると、デジモンの起源というのはそんなに古い時代では有り得ないのではないか、というのが私の発想起源だった。
勿論、古代から別次元で進化し続けてきたモンスターが、ネットワークを人間が整備してから、人間の残したデータとマージして進化してきた、という解釈も可能ではある。
テイマーズのデジモンは、人間の想像の範疇を超えた進化をしているものの、創造主自体は人間だ、というのがテイマーズ解釈であった。
2クール目デーヴァ編の、スーツェーモン、及びその腹心チャツラモン(14話で人間へのメッセージを放った)が人間に挑戦的であったのは、ネットワークに棄てられたデータが自分達の起源だと知っており、人間を憎んでいるという動機があった、と物語は構成している。
人工生命、人工知性をコンピュータ内で作るという試みの起源となると、1940年代に考え出されたセル・オートマトンを二次元でプログラムされた簡易生物シミュレーション、ライフゲーム (Conway's Game of Life) がルーツとなる。1970年にこれは作られたが、携帯液晶ゲームのデジモン、その祖であるたまごっちに似ている。というより液晶のゲーム自体はルーツを辿るとライフゲームになるのではないか、と思うのだが、私はゲームハードに詳しくないので、これは憶測の域を出ない。
ともあれ、デジモンは人工生命というテーゼを、より強調したのがテイマーズに於けるデジモンの在り方となった。
人工知性というと、2021年現在はAIアルゴリズムを連想されるか、擬人化された音声サーヴィスといったものが普通に実用化されて、全く珍しい存在ではなくなっている。株式投資という面でも今やAIによって運用されている。
しかし本当にこれらがインテリジェンスなのだろうか。単機能に特化して、人力よりも効率が良く、トータルでコストカットが出来るという理由で発展しているものが。
アニメという物語で描くデジモンには、自我がある。だからキャラクターとなる。ゲームでも自我がある様に設定され、そう描写されているだろうが、子ども向けの映像フィクションというドラマ空間でデジモンの自我は、「あって当然」なくらいのものになる。
手塚治虫が「鉄腕アトム」で、自我を持ったロボットに人権があるか否かを主題の一つにした様に、人工知性、人工生命というものには本来そうした難題がつきまとい、エンタテインメントの題材としてこの問題については、特に日本のアニメ、特撮では繰り返し検討されてきた。
ロボットと限ればその祖はやはりアイザック・アシモフだろうが、オッフェンバック「ホフマン物語」のオートマトン、ギリシア神話などに遡ると、人造(神造)人間は永年の物語主題であり続けた。
私は「THE ビッグオー」でこの問題をモチーフの一つにしたし、テイマーズでもグラニの存在がそれを表している。
ギルモンが、タカトが話しかけなければ、グラニはあそこまでの人格(デジモン格)を獲得出来なかったろうと思う。つまり、やはり創造主問題なのだ。
テイマーズで、ワイルド・バンチという若い研究者グループが作り上げた独創的な仮想生命がデジモン、デジタル・モンスターだったというオリジンを描いたのは、デジモンという商材を矮小化したかったのでは当然ない。むしろ、ドラマティックな背景を持たせて、かつ、クリエイターの思惑を遥かに越えた存在となって現代に流通している、という物語性を強調したかった。
デジモンにも「妖精型」というのがいるが、現代の人間に認知されていない別次元の存在が、人間とは全く相容れない価値観で介在してくる。時代によってそれが妖精の様に認識されたり、エイリアンと認識されてきた――というのがジョン・A・キールのエイリアン=超地球人説を乱暴に定義したもので、「アドベンチャー」のシリーズディレクター、角銅博之さんはデジモンをこれに近しいものだった、と述べてもいる(そのものではない)。妖精に限らず幻獣、UMAなどこの解釈はUFOそのものまでも敷衍出来る、懐の深い解釈なのだが、なかなかフィクションでは説明しきれない。
デジモンが原始的なプログラムが幾ら進化したとて、2000年頃までに人間を凌駕せんばかりに進化している理由は、テイマーズでも提示出来ていない。ここは様々に解釈が可能であり、決めつけたくはなかった。
ワイルド・バンチの一人がジェンリャの父親――という構成がシリーズを縦軸で貫いていた。多くの設定は17話ラピッドモン回(脚本:まさきひろ)に、SHIBUMIの赤いニシン(意図的誤誘導情報)と共に提示されている。
作劇的に、ジャンユーが初めて目の当たりにする、リアライズしたデジモンとして、インプモンとテリアモン(家の中でジェンが愛玩しているぬいぐるみとして見慣れていたがやっと気づく)という事になったが、本来的にはアグモンは無理でも、初期に周知されたデジモンだった方が、より驚きが大きかっただろう。
私も44話ドーベルモン回のA-Partで、多くの情報(デ・リーパーの説明)の中で、ドルフィンことロブ・マッコイと、オリジナルのデザイナーという設定である長男キースのホームビデオ画面と共に、ワイルド・バンチが実現しようとしていたものを見せている。
小説「デジモンテイマーズ1984」はこれらをまとめたものだった。
2021年に振り返ってみると、ワイルド・バンチが活動していた1984年から2001年までは17年。2001年から2021年よりも短いのだ。
ワイルド・バンチが使っていたゼロックスのALTOから、現代は相当にコンピュータは進化したのだが、本格的に人工生命、人工生態系を作ろうとという試みについてはずっと足踏みをしている。ドワンゴがARTLIFEという人工生命観察プロジェクトを終了したのが2019年。あまり注目されなかった。
2001年の私は、20年後ならテイマーズで扱っている様な出来事も有り得なくはない(リアライズはさておき)、と考えていたと思う。人工生命が仮想空間で、明瞭な自我を持つといった事だけれど。
2016年に世間に登場して耳目を集めた、香港の企業が製作するソフィアというロボットは、世界経済フォーラム (!)でスピーチをし、サウジアラビアの市民権まで得たが、実際のところ、優秀なスピーチライターにサポートされた、出来の悪いオーディオアニマトロニクス(ディズニーランドの展示)の範疇で、昔の学天則と大差ない。ただ、実際に自我があるかの様に振る舞うだけで、ソフィアは注目を浴びた。人工生命の自我、知性獲得までには何光年も距離があるのが現状だ。
むしろ「ターミネーター」のスカイネットの様な、人類を破滅させるまではいかなくとも、人類が意識せざる領域で管理されている――という事は既に一部で起こっているかもしれない。
いやもう現実には、日本の内閣府が2050年の日本を、人間とロボット、AIが共存する(というよりはAIに生かされている)社会として理想化したムーンショット計画を2020年のパンデミックの最中に発表して、「陰謀論」を語る人々の間を騒然とさせた。高齢化社会の解決策として作成されたのだろうが、どう考えてもこの人間の健康を管理するAIに、「心」があるとは思えない。
かつて人工生命、人工知性を確立しようとした研究者の目標が、工業用ロボット的な単機能なものではなかった筈だが、もうそうしたものを研究する事すらも現在は無駄なのだろうか。この点に於いてのみ、テイマーズの裏主題的な問題は20年で、恐ろしい程に陳腐化してしまったと残念に思っている。
私はテイマーズを見返している内に、ワイルド・バンチのメンバーが必死に2001~2002年に起きていた状況を打破すべく奮闘する様子に思い入れていた。かつては夢破れながらも、子どもの世代が頑張っている。それを必死に支えようという立場だ。
しかし、テイマーズというシリーズ自体は視聴率や販促では前作に及ばなかったものの、好きになってくれた人が世界中にいて、今尚も熱をもって好きだった事を語ってくれる。それぞれの分野で頑張っている。ジャンユーが、自分の息子がデジモンのゲームをやりこんでいるのを見て、どれ程嬉しかっただろう、とは想像出来たのだ。
今年2021年、放映20周年を記念した商品展開がこれほどあるとは全く予想だにしていなかった。ありがたいと思う一方で、だったら2018年に続編(といっても1~2クールの想定だった)を作らせてくれたら良かったのにとも思ったが――、いや、アニメのキャラクターは本来、歳をとらないものなのだ。新規に描かれた版権画はいずれも、20年前のタカトたちだった。ことテイマーズに限って、リアルタイム性に固執する私の感覚の方がおかしい、というのは自覚している。
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映画版について
アニメでも特撮でも、シリーズを放映中に映画を作る事はよくあって、プロデューサーが異なるのと、玩具の販促事情なども絡んで、シリーズとの整合性がとれないというのもよく起こる。
しかし劇場版というのは、一種の「特別編」なのだと割り切って観て貰えたとも思っている。
「冒険者たちの戦い」は2001年7月に東映アニメフェアで公開されたが、ちょうど放送でも14話でメガログラウモンの初登場となる。映画ではタオモン、ラピッドモンにも進化するが、終盤の終盤で段取りも省略されていたので(進化バンクはメガログラウモンのみ使用)、これも「映画だから」という特別感に収まったと思う。
監督は33話からシリーズに参加される今沢孝男さん。作画監督は38話からシリーズに参加された山室直儀さん。美術は徳重賢さんで、脚本は小林靖子さんが書かれた。
まだ1クール目を作り始めた頃からの企画で、まだ「タカトくん」「リーくん」と呼び合っている時期。留姫も仲間意識は生じていない頃なので、作り難かったろうなぁと推察する。それもあってか、沖縄という離れた場所を舞台とした。
冒頭の夏休み、タカトが苦労してギルモンを沖縄に連れて行くくだりは実に楽しかった。
細かい事を言い出すと、やはり整合性はないところもあるのだけれど、ギルモンやクルモンがのびのび描かれている。
多分、上(抽象的に)からの声で、オメガモンを出す事で、次元を越えた競演という世界観の重なりを盛り込み、一層特別版的な要素にした――と思う。
こういう手法で世界観の異なるヒーローを競演させる、というのは過去にも例はあると思う。
「ウルトラマンティガ」と「ダイナ」は共通の世界観だが、「ガイア」は全く異なる世界観で、三人のウルトラマンを競演させる映画を私の弟が監督する時に相談され、私が「こうやれば?」と提案したのが、メタフィクションのフレームだった。ガイアの主人公、高山我夢がウルトラマンだと周知されている世界観。最終回では実際そうなるのだが、映画公開時はそうではなかった。
そもそもテイマーズのシリーズは、デジモンという存在がリアライズしているかはさておいて、周知され子どもに人気があるというメタ的な設定なので、オメガモンと遭遇しても何ら違和感がない。しかし留姫とキュウビモン、ジェンとテリアモンをスーパー・パワーで召還はしても、律儀にもテイマーズ世界にオメガモンはリアライズ出来ない、とされ、その分、オメガモンですら討ち損なった強敵デジモンを倒すべく、ギルモンたちは完全体に進化してなんとかなった、という構造。
とにかく50分の間、バトルに次ぐバトル、アクション満載で、東映アニメーションの映画として見事な出来だった。
留姫がヨーロッパに行っているルミ子の帰りを気にしているのを誤魔化され、レナモンが大笑いする場面。
悪役デジモンの一体として、私も02「ダゴモン」で登場させ、テイマーズでは32話に登場したハンギョモン。悪者に描こうと、オタマモンを守っている善人に描こうと、ハンギョモンはどれでも魅力的なキャラクターだと思う。
映画公開時には、既に私は第三部を構想し始めていたと思う。やはり、「悪くて強いデジモン」を相手にし続けたら、互いにインフレしていくしかないなと思った。映画の50分だからこれは成立している。しかしシリーズでは、私には無理だと思った。
この「冒険者たちの戦い」が作られた事で、シリーズでも極めて大きな恩恵があった。本ブログでは再三述べてきたが、この映画用に新録された音楽の数々が無ければ、デジタル・ワールド編、デ・リーパー編は全く違う印象だったに違いない。
あと、31話の対オロチモン戦での狐葉楔は、この映画の流用カットだった、というのを20年ぶりに見返して判った。
49話でこの映画のカイを登場させたのは、当該の回顧に記した通りだが、無理矢理にでも映画と同一世界観だ、と主張したかった訳ではなかった。ギルモンをすぐに気に入り、タカトがテイマーだと主張するのを羨ましがるカイは、私にもとても印象的だった。
41話以降、散々「逗子の叔母さんの家」を振っていたので、一度はそこにタカトを行かせたかったが、親戚同士の会話をさせてもしょうがないな、と考える内に、親戚と言えばカイがいたじゃないかと思いつく。あとは、タカトの本音を引き出す役割だったというのは前に書いた通り。
「暴走デジモン特急」は2002年3月2日公開。ちょうどシリーズでは同じまさきひろさんが脚本を書いた47話が翌日に放送されるというタイミング。
監督は中村哲治さん。脚本がまさきさん。作画監督は上野ケンさんが、シリーズとはひと味違うニュアンスで、ダイナミックな画面を作られた。美術は行信三さん。
この映画の企画の方が最終話のシナリオを書くよりも早かった。
2003年に、「フロンティア」が終了した時、初期シリーズ4作のCDドラマを録音する企画があって、私がシリーズのその後「メッセージ・イン・ザ・パケット」を書いたのだけれど、それは最終話の延長で、この映画に描かれる様な状況には戻らない。
ではこれは完全にイフ・ストーリー、無関係だなどと言うつもりはない。シリーズのライターが書いているのだから、ニュアンスはシリーズを反映している。
特に近年思うのは、年長のファンにはCDドラマとの矛盾に混乱を起こしたのかもしれないが、リアルに子どもの視聴者には、最終回後にこうしてテイマーとデジモンたちがリアル・ワールドで生きている――という展開も有り得たと思って貰えたなら、映画ならではのアクションも相まって良かったのではないか、と。
私が最終話で離ればなれになる、という終わり方に固執した件については、また改めて記そう。
大ガード東側。
そう言えばラピッドモン進化回(秋葉原)もJRが舞台だったなぁ。しかしこの映画の企画自体が暴走機関車デジモン版というオーダーだったそうだけれど。
終盤ではブラスト・モードで再登場するが、最初にベルゼブモンは久方ぶりにベヒーモスを駆る赤目での登場。すぐにやられてしまう。
「冒険者」が50分だったのに対してこちらは25分。だがアクションばかりではなく、留姫の父の想いと、それを歌に込めるという叙情的な場面がたっぷりと描かれる。これはシリーズで立ち入れなかった部分をフォローして貰えたと思っている。
最後にはクリムゾン・モードにまで。て事はシリーズより2週早く登場していた事に。まあVジャンプなどでは既に披露されていたのかもしれない。
シリーズではクリムゾン・モードで技コールはする余地もなかったが、映画では「クォ・ヴァディス」とタカトとデュークモンが同時にコールして決める。
タイミング的に、シリーズでこの映画用に書かれた有澤孝紀さんの音楽は使えなかった。この映画で有澤さんは4ビートからモダンな16ビートまで幅はあるものの、ジャズにほぼ統一され、映画を特別な印象にしている。有澤さんはジャズメン出身のコンポーザーではなく(アニメ音楽の往年の名作曲家はそういうケースが多かった)、最初から映像作品の音楽というものを志向されるという珍しい作曲家だった。つくづく惜しい方を早くに亡くした。
後期エンディング
24話から替わったエンディング。AiMさんが歌う「Days -愛情と日常-」(作詞:うらん 作曲:うらん 大久保薫 編曲:大久保薫)については、やはり既に触れたのだけれど、まだまだ幾らでも語りたい。本エントリの主題はエンディングの画面なので、節制するけれど、個人的にはもの凄く思い入れのある曲だ。終盤のシナリオを練る時、書いている時は相当に聴き込んだ。
テイマーズのエンディング・フォーマットは前期もそうだが、1分20秒しかない。これにピッタリはまる、イントロからエンディングまで入れるなんて殆ど普通の曲には不可能。デジモン・シリーズではこれまでに5曲のエンディングが作られている。楽曲の製作時にどこまで配慮されたのかは推測するしかないのだが、アップテンポの曲が多かった理由なのかもしれない。
この「Days」はミドル・テンポ。しかしイントロを半分に短縮しただけで、歌はコーラスの終わりでそのまま自然に終わる。このエンディングは音源化された2種類のトラック(マキシ・シングルと「シングルベストパレード」のThanks Version1)とも違い、リミックスでは不可能な終わり方なので、録音時から映像用のオケも録られていたと思う。それくらい自然に填まっている。
後期エンディングは今村隆寛さんが演出された。
雰囲気的なモンタージュ、という印象だったのだが、20年ぶりにしっかり見直すと、何となく意図が見える気がする。
第二部デジタル・ワールド編の為に作られた、リアル・ワールド球を使い倒す。
キャプチャは初出の24話から。
ドラム・フィルで始まる部分、極めて短いモンタージュ。リアル・ワールド球は、グライドが一応動いているものの、球体そのものは動かさない。
モノフォニック・シンセのリードが始まるとこのサイズから――
引いていって――
新宿駅東口。アルタビルの前にギルモンがいる。
アップライト・ピアノと共に歌が始まる。アルファ・チャンネルで切り抜かれたタカトのシルエットに青空。
Aメロ2回目に行くところでタカトが描かれる。巨大なテイマーとリアル・サイズのデジモンという倒錯的な描写。
ずっとリアル・ワールド球は小さいサイズで残り続けている。
Bメロ頭。歌う様なベースライン。私が「ビートルズっぽい」と感じた要素の一つ。フェイズ・シフターをかけたギター、ノン・ミュートっぽいドラムなどなど。
ところでレナモンが何に乗っているのか判らない。
凄い歌詞だと思う。
留姫が描かれ――
視線を上げる。
レナモンと同時に向き合う。
この部分は音楽に合わせる意図だろうが、長い。
ジェンが描かれる。
ドラムが入ってきてサビへ盛り上げる。
ドラムに合わせてサイズが切り替わる。
すごいパースのついた都庁。コーラスに入って、これが決まりの画かと思いきや――
リアル・ワールド球が地面を一掃していく。
デジタルではなく、エフェクト・アニメーション。リアル・ワールド球はマテリアルとして使われている。
一掃した後は――
メサの上に立っている三人。その下は、テイマーズ本篇では描かなかった(避けた)、サイバーなイメエジのデジタル・ワールド。
テンポに合わせて振り向くジェン――
留姫――
タカト――。
コーラス2回目で更にリアル・ワールド球が地面を一掃すると――
海と、緑の覆う崖上にいる、四体のデジモン。
テリアモンの振り向きは入念。ワンレンの髪を払う的な。
レナモンの笑う顔って本篇にはなかったと思う。いや決して笑わない訳ではないのだが、レナモンは「ふっ」と俯き加減で笑うので、口元は見えないのだ。
映画「冒険者たちの戦い」では大笑いしていたが。
角銅さんが言われていたが、恐竜型デジモンの中でもギルモンは、正面顔が様になる希有なキャラクターだった。初期は広角のアングルが多かったが、望遠で捉えると鼻先が少し内向きになっているので、両眼の焦点も合う。
で、この歌詞を延々と聴いていたら、やはりラヴソングだとしか聴けなくなったのだ。
危機が去った後の時間、というイメエジなのかなぁと思って毎週見ていた。
しかしよくよく見ると、海にはサイバーな紋様が重なっている。ここは現実世界ではない。
デジタル・ワールドの中の、海。確かにそういう場所だってあるのだろう。
24話の担当演出、中村哲治さんは前期エンディングを演出されていた。
貝澤さんもデジタルに強い、というかデジタル第一世代の演出家で、テイマーズでも新たな表現を撮影(デジタル合成)で指向されていた。今村さんだって担当話ではデジタルを使いこなされていた。普通の画面が少ないとすら感じる程に。
しかし、この後期エンディングはコンヴェンショナルなアニメーションとして完結されている。歌詞のイメエジではとても画面は作れない、と思われたかもしれない。かと言って、デジタルに凝る楽曲でもない。シリーズでも、リアル・ワールド球とダスト・パケット以外は、極力ノーマル(ではないが)な、加工に頼らない場面設定にしていたのだから、このエンディングに違和感は全くない。
一見、ナチュラルな雰囲気。しかしじっくり見ると――という構造を意図されたのだろう。もしタカトたちがデジタル・ワールドに行ったままだったら、という未来像だとすると、これはちょっと怖いのだけれど。
最後の「もっと――」というコーダはそのまま全音符でディストーション・ギターがルート・コードの突き放しと共に終わる。CDはどちらもこういう終わり方はしない。こういうメロ自体が、このテイクにしかないのだ。
2017年に製作したCDドラマ「Days -情報と非日常-」は言うまでもなく、この曲のタイトルからの無理矢理な引用。この曲で繰り返し歌われる「日常」という言葉は、テイマーズを書いていた2000年~2001年の私にはとても重要なタームだった。そこに現れる「非日常」がデジモンなのだ。
CDドラマはTVサイズではなく、フルの「Days」を収録したいと思っていたのだが、ドラマを長く書き過ぎて、30分に収めるにはイントロをノーマルにしたTVサイズしか収められず、痛恨だった。
フルのヴァージョンを、もっと多くの人に愛聴して貰いたいと今も願う。
で、この曲が終わるとなると――
「The Biggest Dreamer インストゥルメンタル・ヴァージョン」のイントロが、自動的に再生されてしまう。次回予告がない51話は、そりゃあもう寂しかった……。
さて、シリーズの回顧を終えてしまったとなると、その後の幾つかのフォロー的な2種類のCDドラマ、小説などがあるが、いずれも放送後暫くしてのものであり、その前に、私は無関与ながら、デジモンテイマーズの映像作品として放送と平行して公開された映画二本についても触れない訳にはいかないと思っている。
オープニング
オープニング曲「The Biggest Dreamer」については、本ブログでは既にこうしたエントリを書いている。本エントリでは、その楽曲(のTVサイズ)にどういう映像が作られたか、またどうマッチさせ、音響効果がついたかを記しておきたい。
オープニングを創るのは、シリーズディレクター/監督にとっては大いにやり甲斐のある仕事だろうとも思うが、我々スタッフはオープニングから受ける印象やディテイルなどから、様々に自分の仕事の指標を見出す。あまり好きな言葉ではないが、「世界観」を提示していると言える。勿論第一義には視聴者に対してだが、スタッフにとってもそうであった。
先に書いておくと、90年代後半以降の東映アニメーション作品と円谷プロダクション作品には、ある部分で共通する要素があって、あまり語られない事だが実は作品の印象を決定づける重要なセクションだ。
それは、選曲と効果(音響効果)。
「ファンファンファーマシィー」を含む「アニメ週刊DXみぃファぷー」は、「ウルトラマンティガ」と同じくスワラ・プロの水野さやかさんが選曲を務められていて、当時はそうした事情を知らず驚いていた。
テイマーズの選曲、西川耕祐さんがスワラに在籍されていたのかは、判らない。効果の奥田維城さんは後に独立されるが、スワラ・プロとしてテイマーズを担当された。選曲も音効も、画面と同等にその作品の印象を左右する重要な要素である事は間違いない。その場面が気持ち良く見られるか、怖いと感じるか、感動出来るか――も、この二部門の役割が極めて大きい。
という事を長々と書いたのには、やはりオープニングの冒頭の、怪獣(ギルモン)の咆哮の効果音が、東宝怪獣のガイラを起源とする、多くの特撮ファンにはゴモラの声と認識されているものが使われているからだ。
1960~80年代の円谷作品の音効がどうであったかは、私は詳しくない。スワラ・プロは「恐竜戦隊ボーンフリー」から参加している様なので、こちらも古い。グリッドマン以降は完全にスワラだと思う。「デジモンテイマーズ2018」の音効を担当してくださった古谷友二さんは、「ウルトラマンマックス」から私のシナリオと縁があった。
さて前書きが長くなったが、それではオープニングを静止画像で振り返る。
どう見てもギルモン。
だが、本篇では全て野沢さんが咆哮も全て演じられた。ここでは怪獣の咆哮が効果としてついている。
この叫んだ横シルエットが、テイマーズのシンボルマークに重なる。デジタルを表すドットの世界から飛び出してくるモンスターという、実に考えられたシンボル。
ここから和田光司さんの歌声がスタート。駆けているタカトのアップ。
タカトも叫んでいる。
タカトは一人で走っているのではなかった。
前に留姫、後ろにジェン。
更にもっと多くの子どもたちと一緒に――。
アカペラ・パートの伸ばし音となり、アナログ・シンセ・ベースのうねりと共に――
画面を過る、光のシルエットのギルモン、テリアモン、
レナモン――。
タカトたちの動きがスローモーションになりながら――、
顔を向ける。
ニコニコ動画で配信される時、いつもこのカットで「こっち見んな」というコメントが流れる。しかし実際は画面のこちらを見ているのではなく、過っていったデジモンを目で追っているのだ。
ここから、オケヒット(Orchestra Hit)とジェイ・グレインドン風多重ギターの'80年流に派手なイントロ。
7体分描かれたタカト。全て動いている。
ジェン。タカトより少し動きがおとなしい。
留姫、強さ、激しさと、孤独さ。
7カット分の原動画が描かれている。それが三連。このオープニングは本篇半パート分くらいありそうだ。
テイマーズで一貫して表現されたサークル。
タイトル・ロゴにD-Arkのサーチ画面が重なる。
イントロいっぱいまで、これでもかとクルモンが沢山描かれる。
歌頭と同時に、タカトの靴の裏がイン。
このカットが、21話「レオモン様」の冒頭の樹莉のカットとして角銅さんが反復され、貝澤さんも25話でデジタル・ワールドに足を踏み入れるという時に反復した。
あっ、と気づく。歌の「そう、ぼくは気づいたんだ」の直後にあるカット。
三井ビル、風の左のビルに――
新宿モノリス、風な右のビルに――
住友ビル、風の真ん中のビルに過るデジモンの影。
手前の壁にも大きな影。
ギルモン。
さてここから、インプモンを探せ大会。
テリアモン――と、これは難しいのだが、走る小型車のバック・ウィンドウ越しに恐らくいる。アウト・フォーカスだが、色で判別出来る。
レナモン。の前を過るシルエット。ここは判り易い。
鳩に囲まれているクルモン。
キャメラが引く時、辛うじて見える。
新宿中央公園とはっきり判る。さっきの鳩が飛んでいく。
アークを掲げる手。
メインの三人。
更にずっと多くのテイマーが。
シウチョンが描かれていて驚いた事は前に記した。ヒロカズ、樹莉は最初からテイマーと決めていた。
成長期のアクションから入り、成熟期、完全体、究極体のシルエットが重なっていく。
ネタバレ、というよりも、圧倒的な情報量で目を眩ませるという意図ではないか。
オケヒットの3.5拍分は、デジタルによるパワーか爆発の表現。
ギルモン~メガログラウモンまでの必殺技モンタージュ、の前景で、タカトとギルモンが背中合わせに座っているシルエット。
なんか手を上げている。
ギルモン、大あくび。
デュークモンのシルエットが1話から提示されていた。次のカットとの繋ぎの一瞬に
スリット越しのインプモンが見える。
最初判らなかったのだが、川田武範さんがよく演出された、ジェンの頭にテリアモンが乗ってる図はこれが由来か。
逆立ちをする。これは16話のキャンプ回にて披露された。
セントガルゴモンのシルエット――
それに続く繋ぎの黒味で――
今度は縦スリットの移動の途中でベルゼブモンが見える。
歩み寄っていく留姫とレナモン。
ハイタッチ。
立ち止まって――
互いに振り向く。
そして、それぞれの方向へ駆け出す。
サクヤモンのシルエット。
誤解を与えたサングラス。
タカトのゴーグルと同じ様に、留姫、ジェンを見せたかった。しかし、いつもこのサングラスがどこに仕舞われていたかは謎・謎・謎。
大いばりでインプモンが歩く。リピートだが、一番長く映っているデジモンがインプモン。
そして浮かび上がるベルゼブモン。デーヴァ進化ではなく、ブラスト・モードの姿。
赤黒く汚染されていく西新宿ビル群。デ・リーパーのデの字もない時期に作られている。デ・リーパーがなぜ赤黒いのか、はこれが理由。
結構ダークな展開があるよ、とオープニングから暗示されている。
しかし、重なってくるクルモンが――
無邪気に飛び回るので、基本的には楽しいシリーズですよ、と。
光の中から子どもたちが現れる、という41話の展開は、このカットがオリジン。
タカトは初期、D-Arkを首からぶら下げていた。
D-Arkの液晶が明滅している。
そして光の筋を発する。
D-Arkからこうしたパワーが生じる、という事を私は全く考えていなかった。玩具ではとても再現出来まいと、躊躇していたのだが、私は私で仮想スクリーンを表示させていたし、という事で開き直って、アークの光を効果的に使えるところでは、全編に渡って描いた。最後が樹莉の使用だった。
ちょっとギルモンのサイズが大きすぎるのだが……。
当然だが、オープニングに私は全く関与していないので、これが正解と主張する気はないのだが、こういう流れだと思う。最初に走っているタカトたちは、デジモンと出会う前の子どもたちだ。
そしてリアル・ワールドにデジモンがいると認識されていく。
アークを掲げる場面は二つあるが、中間の方は、デジモンテイマーになるという決意の表れと見える。
そして、活躍するパートナー・デジモンたち。その進化する先――。
パートナーとなって、三人三様なデジモンとの付き合い方をしているのがシルエット。
そして、デジモンと一緒に並んでアークを掲げるのがラストカット――。
24話「旅立ちの日」から、一部のカットが変更される。
中間の子どもたちだけがアークを掲げているカット。樹莉とヒロカズ、シウチョンに色がついて、タカトの後方がケンタに変更されている。
シルエットだった究極体に色がつく。
究極体の新作カットは若干(数フレーム)増えていると思うのだが、どこかが削られて辻褄が合っている。
ベルゼブモン(ブラスト・モード)に色がついて、荒牧さんがクレジットに加わる。
レオモン、ガードロモン、マリンエンジェモンが描かれる。ロップモンに決まるのはやはり少し後だったか。
34話から、中村さんがクレジットに加わる。
本ブログを書く為に、Anilogが隔日で配信するYouTube動画で全話を見直したのだが、一度もオープニングを飛ばさなかった。私としては珍しい。というか飛ばせない。テイマーズを見直すという事は、和田光司さんの声を最初に聞かないといけないと、私の中で法制化されている。
にしても、キャプチャ画像が汚くて申し訳ない。YouTube配信用にWEBMに圧縮された映像は、あまりに激しい動きと色の要素で破綻しまくっている。もっとビットレートを上げて欲しかった。あ、Blu-rayボックスなら美しくHDにスケールアップされた映像を愉しめるので、そちらを是非お求めください。ダイレクトマーケティング