Digimon Tamers 2021 Blog

デジモンテイマーズ放映20周年記念ブログ

2001年の秋と、2020年から現在まで

 

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24話を回顧する前に、やはり9/11について記しておかねばならない。
テイマーズが20周年という事は、9/11も20周年という事でもある。
当時の私は事件の報道をリアル・タイムでずっと見続けた記憶がない。大変な事が起こっているのに、私は虚構を構築する事に専念していた。現実をベースにした虚構を作っていたのに、現実から距離をとっていた。

デジモンのアニメが北米でサバーンのブランドとして番組販売されている、という事は知っていたが、日本での放送からタイムラグがあるだろうし、直接的に23話が悪影響を出すまではないだろう、とこれはただの願いでしかなかった。

9/11は、日本人の犠牲者も少なくない。賠償保険では日本の保険会社が相当額の負担をしていた。全く無関係な事件ではない。
更に言えば、その後に起きたブッシュ政権の戦争に、日本は支援を積極的に行った。当時はそれも無理のない状況だと思っていた。


テイマーズに関して先に述べてしまうと、25話からの第二部デジタル・ワールド編は、もう大体の構想が出来ていて、順次シナリオを持ち回りで上げていく段階に入っていた。
4クール目に入ってややしてから、再び現実世界に舞台を戻すのだが、第一部と違ってもう、非常事態が起こっているという状況から始めるので、第一部とは全く違う。

最後の敵がデ・リーパーという非デジモンに設定した理由については既に、このエントリで述べているが、付け加えるなら「喋らない敵」であるべきだと考えていた。これは「ウルトラマンガイア」で、ヤプール的な敵設定をしたいというプロデューサーの意向に対して、「だったら」と私がつけた条件が、自分の主張を人間の言語で述べさせないというものだったのも同じ理由だ。名称が根源的破滅招来体であろうがデ・リーパーであろうが、根本にはそこが問題であった。

勿論、アニメにはアニメのカルチャーがあって、会話をしながらも戦闘を激化させる事が不可能だとは思わない。
しかしテイマーズは、究極体にまで進化していた主人公チームをパワー・ダウンさせるべきではなく、三究極体+他のパートナー&デジモン+人間チームというグロス・パワーの全力戦をさせねばならない。デジモンにすらも理解不能な敵、それも、いきなり爆撃するのではなく、静かに侵食していくイメエジが必要だった。どんなにスキルと経験を積んでいても、主人公は子どもたちだ。リアル・ワールドに帰ってからすぐさま再び戦闘という展開は嫌だった。

私の世代は第二期ウルトラ・シリーズにトラウマがある。視聴率低下を理由に、いきなりレギュラーのキャストが減ったり、設定が変更になったりと落胆を覚えた。
世代的に、二期に思い入れがある人々もいるのだが、「最初に何を見たか」という条件を外せば、私の言う事は理解される筈だと思う。
特に「ウルトラマンエース」は、敬愛していた市川森一氏が設定を作られたが、異次元人ヤプールが喋るたびに神秘性を失い、ただの悪い異星人と大差なくなる。
従って、「喋らせるな」が一番端的な方法として選択肢の筆頭になる。

しかし完全に喋らないと、相手の意図すらも計れず、ドラマが作れない。だから、「ガイア」では《自称代弁者》的に振る舞う《死神》の描写も許容した。
テイマーズでも、樹莉が実はエージェントとすり替わって、リアル・ワールドを観察する存在とし、次第に言語を発する様にもした。この塩梅が難しいのだ。

 

 

ともあれ、9/11があろうとなかろうと、第三部で起こる災害的な現象は、リアルな戦争を彷彿とさせる様な設定や描写はしたくはなかった。
9/11が起こった事で、破壊的な描写を一旦「無理」と決める事で、泡が侵食していくというイメエジに絞れたとも言える。実際にはしかし、火器を用いるデジモンがいる以上は戦闘はあるのだけれど。

次第に荒廃していく新宿をどう描いたらいいのか。
貝澤さんは実際には何話までであったか覚えていないが、SDとして毎回の会議には出られなくなる。SD全権は2クール分までといった感じだったと記憶している。次番組(フロンティア)の準備があったのは間違いないだろう。
貝澤さんのフォローとして、中村哲治さんが監督補として入るのだけれど、大泉スタジオ側の現場の方を見られていて、私はあまりお会いする機会がなかった。

もともとデジモン初期シリーズは、関弘美プロデューサーがシナリオについては指揮権とクリエイティヴィティについての方向性決めをしていたので、シリーズ・ディレクターという他の現場では監督という立場の人がいなくとも、シナリオは書き進められる。
しかし、アニメが怖いのは、全く意図と違う解釈を演出にされてしまうのは軽いもので、コンテで全く話が書き換えられる事すらあった。ただ、デジモンというかフジテレビの枠は、局プロデューサーも代理店のプロデューサーもいて、玩具展開に沿った構成になるので、元々それほど書き換わる心配はなかったのだが。
私が心配をしていたのは、どう視覚化するのかを見せてくれる、話してくれる人、各話の演出の方々ではなく、数話に渡って通しでのヴィジョンを提示してくれる相談相手がいないと、全くシナリオが書けなかった。

究極進化で、パートナーとデジモンが一身となって一緒に戦うというアイディアを相談していた荒牧伸志さんが、第二部から正式にCGデザインとしてクレジットされていた。
デジタル・ワールドのヴィジュアライズに続いて、デ・リーパーに侵食されていくヴィジュアルについても荒牧さんに相談し、侵食された都市がどういう景観になったら面白いか(逆に言えば、現実とは掛け離れて不快感を与えないか)を重要なものと考えて、チーズの様に孔が空いていく、というイメエジが提案された。


ヴァジラモン・パジラモンが秋葉原に現れた時、CDディスクをバリバリ食べる、という描写をまさきさんが書いて、アニメ的に面白いなと思っていたのだけれど、デジタル・ワールドよりも現実世界の方が遥かにデータが多く、デジタイズして解析するデ・リーパーは、建築物も実際に「食い散らかしている」のだと解釈出来る、と改めて思い返し、それが最終章の描写になっている。

 

だから、実のところテイマーズについてよく聞いた文句、あそこまで怖く見せる必要があったのかという点については、怖いものを見せようという趣旨なのではなく、恐ろしい敵であり、それを倒すカタルシスが得たかったのだ。

 

東日本震災3.11が起こり、その後暫く天変地異を描くフィクションは作れなかった。人が死ぬという描写すら拒否反応がある期間もあったのだから、私の様なフィクションを書く人間にとっては極めて大きい影響があり、これについては「恐怖の作法」で書いている。

ともあれ、9/11直後に火器戦闘主体の描写は躊躇われ、人間を直接傷つける様な悪役はそもそも朝のアニメには相応しくなく、となれば「恐ろしい敵」という選択肢しか無かったのだと思う。
あれよりスケール・ダウンさせたら、それこそテイマーズは失速して終わる。

究極体が中世の騎士の姿だと知ってから、この姿が活躍するに相応しい舞台は、高い塔に閉じ込められた姫を救う騎士であろうと思った。
更にクリムゾン・モードというのが後出しで出されたが、これはグラニと同時の提案であったので物語として蓋然性があり、北川原さんの設定は見事にはまったと思う。

ともあれ、最終ステージはマザー・デ・リーパーのカーネル・コア内に閉じ込められた樹莉とクルモンを助ける、というのがクライマックスであり、それは達成出来たのだから私の初期目標は果たせた。
リアルな戦争ではない、という事で生まれたのがケーブル地獄で、これはデ・リーパーの事を改めて記す時に書こうと思う。

 


ともあれ、極めて薄いエッジの上を歩いていたのがあの時代だった。

その後、2010年代に入って、9/11はどうして起こったのか、少しずつ調べ始めた。
アメリカだけではなく日本にも、世界にも大きな影響を与えた事件なのに、有耶無耶にされている事が多いとは感じていた。
しかし、早くから陰謀論として語られていた仮説の数々は、興味深いとは思ったものの現実的ではないと排除していた。
ただ、もし、本当に9/11直前に株式市場で大きな動きがあったとか、ろくに崩落事故現場の検証もされないまま瓦礫が撤去されていたのだとしたら、疑う部分は拭えない。

冷静に論理的な観点で9/11を検証した人物は何人もいる。9/11の真実探求者 Trutherと呼ばれた。しかし観点や論理の積み方は相反し、Truther同士が争う様な醜態も見た。
いずれにせよ、日本人の私には真実は見えないのが今も現状だ。

 

そしてその19年後の2020年、いやその直前から始まっている(とされる)現在の状況を、COVID-9/11と言い表した人物がいる。(COVID-1984、と呼ぶ人は少なくない、勿論ジョージ・オーウェル1984である)
日本に住んでいるカナダ人、ジェームズ・コーベットは14年以上前から、メインはポッドキャストで、次第にそれの動画版をYouTubeにアップしていた。
文学博士ではあるが、どこかの調査機関、メディアに属した事はなく、全てソースはネットにあるものからロジックを組み立てる、オープン・ソース調査というスタイル。
だから参照しているソースは全て提示される。
完全に全て同意出来る訳ではないが、逆に認識を改めた事の方が遥かに多かった。

そのジェームズ・コーベットが、今年2021年の春にYouTubeのアカウントを削除された。
有名なアレックス・ジョーンズの様に、声高に陰謀論を喧伝していた訳ではない。
理性的に状況を判断し、2020年春から世界で起こっている事の危険性、それは単に病そのものだけではなく、社会状況について警鐘を鳴らし続けていただけだ。

2020年は異常な年だった。アメリカの大統領選挙をコアにして、ネットとメディアで起きていた一連の出来事、そしてパンデミックとその対策について、私は60年生きてきた中で、最も価値観も何もかも崩された。
国際機関というものについて、医学についてのプロパガンダをする学者、医師、そして主には疫学とか細菌学、生物学、またIT技術やソーシャル・エンジニアリングなどが向かう方向について、いとも簡単に信用を失ってしまった。私が信用出来なくなったのではなく、信用されまいと振る舞われたのだ。

自分がまさか、科学(者)を信じられなくなるなど――、いや2019年からその前兆めいた事は自分の中にあったのだが、それを記すとまた長くなるのでこれは割愛する。

 

だが、私は調査報道のジャーナリストではなくただのフィクションの作家であり、そんな状況で何を新たに生み出せるのかと、2020年は考え続けていた。
私がTwitterを直接見ない様になっていたのも、エコーチェンバー状態のSNSはちょっと近づけなかったのだ。

 

年が変わる頃から、私も今現在(5月中旬)の様な状況になるだろうと覚悟し、それでも私はフィクションを考えるしかなく、それも私の場合は現実そのものは反映せずとも、何らかの対称性、象徴性は持つものしか考えられない――という覚悟も出来た。

最初に、極めてありがたい話があって、それは近々に出版されるものに収録される。

 

このエントリが異常な内容なのは容赦して欲しい。しかし、ここで書いておかないと、何故私が20年前のアニメを熱っぽく語っているのかも理解されないと思った。

 

 

2001年が2020年であった、などと後々思える事がない為に、我々は正気を維持しておかねばならない、とだけ言い添えて本稿は終わる。